つれづれなるままに

つれづれなるままに お気に入りなどを

~風野又三郎~「九月八日」-2 お気に入りの作品とともに(著作権切れ)

「わがる。」一年生の子が顔を赤くして叫びました。
「わかるかね。僕は大循環のことを話すのはほんとうはすきなんだ。僕は大循環は二|遍《へん》やったよ。尤《もっと》も一遍は途中《とちゅう》からやめて下りたけれど、僕たちは五遍大循環をやって来ると、もうそれぁ幅《はば》が利《き》くんだからね、だからみんなでかけるんだよ、けれども仲々うまく行かないからねえ、ギルバート群島からのぼって発《た》ったときはうまくいったけれどねえ、ボルネオから発ったときはすっかりしくじっちゃったんだ。それでも面白かったねえ、ギルバート群島の中の何と云う島かしら小さいけれども白壁《しらかべ》の教会もあった、その島の近くに僕は行ったねえ、行くたって仲々容易じゃないや、あすこらは赤道無風帯ってお前たちが云うんだろう。僕たちはめったに歩けやしない。それでも無風帯のはじの方から舞《ま》い上ったんじゃ中々高いとこへ行かないし高いとこへ行かなきゃ北極だなんて遠い処《とこ》へも行けないから誰《たれ》でもみんななるべく無風帯のまん中へ行こう行こうとするんだ。僕は一生けん命すきをねらってはひるのうちに海から向うの島へ行くようにし夜のうちに島から又向うの海へ出るようにして何べんも何べんも戻《もど》ったりしながらやっとすっかり赤道まで行ったんだ。赤道には僕たちが見るとちゃんと白い指導標が立っているよ。お前たちが見たんじゃわかりゃしない。大循環志願者出発線、これより北極に至る八千九百ベェスター南極に至る八千七百ベェスターと書いてあるんだ。そのスタートに立って僕は待っていたねえ、向うの島の椰子《やし》の木は黒いくらい青く、教会の白壁は眼《め》へしみる位白く光っているだろう。だんだんひるになって暑くなる、海は油のようにとろっとなってそれでもほんの申しわけに白い波がしらを振《ふ》っている。
 ひるすぎの二時頃になったろう。島で銅鑼《どら》がだるそうにぼんぼんと鳴り椰子の木もパンの木も一ぱいにからだをひろげてだらしなくねむっているよう、赤い魚も水の中でもうふらふら泳いだりじっととまったりして夢《ゆめ》を見ているんだ。その夢の中で魚どもはみんな青ぞらを泳いでいるんだ。青ぞらをぷかぷか泳いでいると思っているんだ。魚というものは生意気なもんだねえ、ところがほんとうは、その時、空を騰《のぼ》って行くのは僕たちなんだ、魚じゃないんだ。もうきっとその辺にさえ居れや、空へ騰って行かなくちゃいけないような気がするんだ。