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~風野又三郎~「九月二日」-2 お気に入りの作品とともに(著作権切れ)

「昨日|何《な》して逃げた。」
「逃げたんじゃないや。昨日は二百十日だい。本当なら兄さんたちと一緒にずうっと北の方へ行ってるんだ。」
「何《な》して行かなかった。」
「兄さんが呼びに来なかったからさ。」
「何て云う、汝《うな》の兄《あい》※[#小書き平仮名な、82-14]は。」
「風野又三郎。きまってるじゃないか。」又三郎は又|機嫌《きげん》を悪くしました。
「あ、判《わか》った。うなの兄※[#小書き平仮名な、82-16]も風野又三郎、うなぃのお父さんも風野又三郎、うなぃの叔父《おじ》さんも風野又三郎だな。」と耕一が言いました。
「そうそう。そうだよ。僕《ぼく》はどこへでも行くんだよ。」
支那《しな》へも行ったか。」
「うん。」
岩手山へも行ったが。」
岩手山から今来たんじゃないか。ゆうべは岩手山の谷へ泊《とま》ったんだよ。」
「いいなぁ、おらも風になるたぃなぁ。」
 すると風の又三郎はよろこんだの何のって、顔をまるでりんごのようにかがやくばかり赤くしながら、いきなり立ってきりきりきりっと二三べんかかとで廻《まわ》りました。鼠色のマントがまるでギラギラする白光りに見えました。それから又三郎は座って話し出しました。
「面白かったぞ。今朝のはなし聞かせようか、そら、僕は昨日の朝ここに居たろう。」
「あれから岩手山へ行ったな。」耕一がたずねました。
「あったりまえさ、あったりまえ。」又三郎は口を曲げて耕一を馬鹿《ばか》にしたような顔をしました。
「そう僕のはなしへ口を入れないで黙っておいで。ね、そら、昨日の朝、僕はここから北の方へ行ったんだ。途中で六十五回もいねむりをしたんだ。」
「何《な》してそんなにひるねした?」
「仕方ないさ。僕たちが起きてはね廻っていようたって、行くところがなくなればあるけないじゃないか。あるけなくなりゃ、いねむりだい。きまってらぁ。」
「歩けないたって立つが座《ねま》るかして目をさましていればいい。」
「うるさいねえ、いねむりたって僕がねむるんじゃないんだよ。お前たちがそう云うんじゃないか。お前たちは僕らのじっと立ったり座ったりしているのを、風がねむると云うんじゃないか。僕はわざとお前たちにわかるように云ってるんだよ。うるさいねえ。もう僕、行っちまうぞ。黙って聞くんだ。ね、そら、僕は途中で六十五回いねむりをして、その間考えたり笑ったりして、夜中の一時に岩手山の丁度三合目についたろう。あすこの小屋にはもう人が居ないねえ。僕は小屋のまわりを一ぺんぐるっとまわったんだよ。そしてまっくろな地面をじっと見おろしていたら何だか足もとがふらふらするんだ。見ると谷の底がだいぶ空《あ》いてるんだ。僕らは、もう、少しでも、空いているところを見たらすぐ走って行かないといけないんだからね、僕はどんどん下りて行ったんだ。谷底はいいねえ。僕は三本の白樺《しらかば》の木のかげへはいってじっとしずかにしていたんだ。朝までお星さまを数えたりいろいろこれからの面白いことを考えたりしていたんだ。あすこの谷底はいいねえ。そんなにしずかじゃないんだけれど。それは僕の前にまっ黒な崖《がけ》があってねえ、そこから一晩中ころころかさかさ石かけや火山灰のかたまったのやが崩《くず》れて落ちて来るんだ。けれどもじっとその音を聞いてるとね、なかなか面白いんだよ。そして今朝少し明るくなるとその崖がまるで火が燃えているようにまっ赤なんだろう。そうそう、まだ明るくならないうちにね、谷の上の方をまっ赤な火がちらちらちらちら通って行くんだ。楢《なら》の木や樺の木が火にすかし出されてまるで烏瓜《からすうり》の燈籠《とうろう》のように見えたぜ。」